第4課 祝福の福音
 

◎本文聖句 Uコリント 969

◎関連聖歌 500章、489

◎暗証聖句 “神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、
                      あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。”(Uコリント
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◎参考聖句 Uコリント 89 ピリピ 419

◎目標 1 私たちが神様の祝福を受けることができる根拠が何なのか調べましょう。

          2)祝福の信仰とシャーマニズム的信仰の差を調べましょう。

◎勉強する内容

 今日多くの人々はイエス様を信じることが苦しみの中で貧しく暮すことであり、それはまるでキリスト教の本質であると思っています。それでは果して私たちが貧乏と苦痛の中で住むことが神様の御心で神霊な生活でしょうか?


1.物質世界を先に造られた神様

 神様は人間を作る前に物質世界、すなわち天地と万物を先に造りました。そして、物質の世界を造られた最後の日に神様のかたちに似た人間を造られました。そして、彼らに祝福をくださって “生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ”(創世記128)とおっしゃいました。また神様は全地面の上に造られた種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木を人間 の食物とされました(参照、創世記 129)。

人間が造られた翌日はヤーウェの安息日でした。ですから、人間が造られた後すなわち神様の安息の中に入って神様が創造した豊かな物質世界を享受して治めながら暮すようになりました。神様は人間に物質が必要なことをご存じでしたので、人間に必要な物質をあらかじめ準備されたのです。

こういう訳で神様が造った初めの世の中は確かに人間に必要な物質がすべて用意された豊かな世の中でしたし、また人間の衣食住の問題が完全に解決されたところでしたし、すべてがよかった世の中でした。それでは今日人間はどうして汗を流しながら生きて行くようになったのでしょうか?
 

2.どうしてすべてがうまくいかなくなったのでしょうか?

 人間の全てがうまくいかなくなった根本的な原因は人間が神様に不従順したからです。神様は物質世界のすべてのものをアダムとエバにを与えられましたが、園の中央にある善悪の知識の木の実は食べてはいけないとおっしゃいました(参照、創世記217)。この善悪の知識の木は神様の主権を意味します。創造主である神様は被造物として造られた人間が創造主の権勢の下に従わなければならないという事実を教えるために善悪の知識の木を置かれたのです。

ところで、アダムとエバがサタンの誘惑に負けて善悪の知識の木を食べてしまいました。これは神様の主権を踏み付ける行為でしたので、神様の裁きと呪いが彼らに臨むようになったし、彼らは結局エデンの園から追い出されてしまったのです。このようにアダムとエバの犯罪によって地は呪われ、茨の薮とあざみを生え出し、それによって人間は顔に汗を流さないと食を得ることが出来なくなりました。また、出産の苦しみを大きく受けるようになりました。そして遂に土に帰るようになったのです(参照、創世記 31619)。このような呪いは今日にも全世界に満ちています。それではこの世の中は呪われた状態で永遠な滅亡に向かって行くしかないでしょうか?


3.十字架の購いの恩寵

 ある人々はイエス様が一生清貧な生活をされたので、私たちもイエス様を模範としてそのように暮さなければならないと主張します。それでは果して聖書もそのようにおっしゃっているのでしょうか?第Uコリント 8 9節を見ると “あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです”と記録されています。この御言葉はイエス様が私たちを富ませるために自ら貧しくなったことを意味します。ですから、私たち信じる人々が富むことは神様の御心であるのみならずキリスト の栄光の道なのです。

イエス様は私たちの貧しさだけを贖ってくださったのでなく、のろいからも贖ってくださいました。これに対して聖書は “キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである”(カラテヤ313)とおっしゃっています。イエス様が自ら十字架の刑罰を受けたことは私たちを呪いから贖われ、‘アブラハムの祝福’をくださるためでした(参照、使徒 314)。

ですから、キリストの中にいる人々は呪いを受ける理由がないのです。もうキリストを通じて救いを受けた聖徒はキリストの栄光のために祝福を享受しなければなりません。これが神様の御心であり聖書の教えであるのです。
 

4.祝福の信仰とシャーマニズム的な信仰の差

 シャーマニズムと言うのは原始的な宗教の一つとして自称神の代言者と言う ‘シャーマン’(Shaman)らが人々を災いから免れるようにしてくれたり、祝福を祈ってくれる行為を言います。また広い意味では日月星辰唇や山川草木に祭りをしてから拝んで祝福を祈る行為をひっくるめてシャーマニズムだと言います。このシャーマニズムは根本的に人間心理から出発した一つの現象に過ぎません。

人間は心細い存在ですので、いつも人間の能力を超越した大きい力に頼って災いから免れて祝福を受けることを切望します。それで人々は日月星辰や山川草木を祭って巫子を尋ねて行って災いから兔れて福を得るように懇請するシーャマニズム的行為をするようになりました。ですから、シャーマニズムは宗教と言えません。ここには敬虔がなく、ただ災いから免れて福だけを受けるという御利益的行為だけあるからです。

しかし ‘祝福の信仰’は唯一な神様から出発します。初めの人間アダムとエバの霊は聖霊充満でしたし、彼らの周りには物質的な豊かさで一杯でした。彼らの意識の中にはただ豊かさと祝福だけ がありました。この祝福の根源は神様でした。シャーマニズムには ‘救い’と言う概念がないが、キリスト教の祝福信仰はイエスキリストの救いを前提にしています。また、シーャマニズムは現世の生だけを強調するので、倫理的な面がない一方、キリスト教の祝福は来世の復活と永生の祝福を信じるので倫理的です。それから、シャーマニズムは悪魔の機嫌を取ることなので、確かな根拠や一貫性がありません。しかし、キリスト教の祝福信仰は神様の約束の御言葉に根拠を置いているので確かで一貫性があります。そう ですから私たちが神様に祝福を求めて享受することは聖書的です。ただ優先順位をどこに置くのかが問題であり、その物質をどのように使うのかが問題なのです。私たちが祝福そのものよりその祝福をくださる神様を見上げる限り祝福を求める行為は聖書的です。ですから、今日神様の御言葉を愛する教会はこのような祝福の信仰を積極的に教えて宣布しなければなりません。


◎聖書研究

1.私たちが神様の祝福を受けることができる理由は何ですか?(Uコリント89 使徒 31314 勉強する内容参照)

2.祝福の信仰とシャーマニズム的信仰の差は何ですか?(勉強する内容参照)


◎交わりと適用

1.聖書的な祝福観によって暮しているのかお互いに話して見ましょう。

2.あなたがキリストを受け入れた後受けた祝福は何ですか?