第15課 生まれつき足のなえた人 (2014.10.15)

1.生まれつき足のなえた人

今日の本文に登場する生まれつき足のなえた人は、毎日美しの門という宮の門の前に座り、施しを求めて暮らしていました。この人は、救われる前の私たちの姿と同じです。私たちも、生まれた時から罪によって歩けない、すなわち正しく生きられない人として生まれたからです。ですから、ダビデは『ああ、私は咎のある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました』(詩51:5)、と告白しています。本文に記録された生まれつき足のなえた人は、他人に頼る人生でした。彼は自分の力で歩けないため、家から宮の門まで、また宮の門から家に帰るまで、他人の助けを受けて生活を暮らしていました。また、彼は何も持っていなかったので、他の人々の助けに頼って生きるしかない人生でした。私たちも、イエス・キリストを信じる前は、風に揺られる葦のように、世の中の風潮に押され、あちこち揺れながら生きて来ました。そうして、イエス・キリストを信じてから他人を助ける人生と変えられたのです。

2.イエス・キリストの名によって歩きなさい

生まれつき足のなえた人は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て施しを求めました。これに対してペテロは、その人を見つめて『私たちを見なさい』(使徒3:4)と語りました。彼は、何か得られる、と思い、すぐペテロとヨハネを見つめました。その時、ペテロが大声で『金銀は私にない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』(使徒3:6)と叫びながら、その人の右手を取って立たせました。すると、驚くべき奇跡が起こりました。その人の足とくるぶしが強くなり、立って歩いたのです。彼は、ペテロとヨハネと共に宮に入り、歩いたり、おどり上がってはねたりして、神様を賛美しました。(使徒3:8)以前は、宮の門の前に座っていただけの人が、今は宮の中にも入るようになったのです。
多くの人々は、宮の門の前で施しを求めて暮らしていた人のように、食べて生きることに忙しい人生です。人々は、一時的で現実的な問題を解決するために、走り回ります。しかし、私たちがイエス・キリストを救い主として信じて受け入れば、主は私たちの一時的で現実的な問題より、根本的で永遠の問題を最初に解決されます。私たちの根本的な問題が解決したら、一時的で現実的な問題は自然に解決されます。

3.私にあるものを上げよう

ペテロは、金銀と同じように、この世で生まれた時から足のなえた人の問題を解決しただけでなく、イエス・キリストの福音の能力によって、彼の根本的な問題を解決しました。ペテロに能力を与えられた聖霊様は、今日の私たちにも能力を与えられます。イエス・キリストを信じる私たちには、「あるもの」があります。ですから、私たちは「私にあるもの」が何かを正しく悟らなければなりません。ですから、この世で数々の問題によって苦しみにあっている人々に、「私にあるものをあなたに上げよう」と言い、分かち合わなければなりません。では、「私たちにあるもの」とは何でしょうか?
一番目、私たちにはイエス・キリストの贖いに対する知識があります。私たちは、イエス・キリストの贖いの恵みを受けて、罪の赦しと永遠の天国に対する知識、そして癒しと復活に対する知識を得るようになりました。知識がない信仰は、感情にしかすぎません。預言者ホセアは、『わたしの民は知識がないので滅ぼされる』(ホセア4:6)と嘆きました。知識は、無知による全ての危険から私たちを解放させます。ですから、私たちがイエス・キリストの贖いに対する知識の上に立ち、信仰によって進めば、目には見えなくても、耳には聞こえなくても、手にはつかめなくても不安と恐れから解放されるのです。
二番目、聖霊様に対する知識があります。イエス様は、『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。』(ヨハネ14:16)と語られました。これは、助け主である聖霊様が私たちの中に来られ、いつも共におられるという御言葉です。聖霊様が共におられるという確信がある人は、孤独でないだけでなく、主の栄光のために、どんなこともできるという大胆な信仰を持つようになります。ですから、使徒パウロは『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです』(ピリピ4:13)と告白しました。
三番目、私たちには愛する力があります。この世で最も尊い宝は、人です。また、この世で最も偉大な力も人です。愛を受けられない人は、他人を愛せません。しかし、私たちはイエス・キリストの愛を受けた人なので、他の人々を愛せる力があります。この世で最も偉大な愛は、神様が私たちを罪の中から救うために、イエス・キリストをこの地に遣わされ、十字架の上で苦しみに遭われた愛です。この偉大な愛を悟れば、誰でも自らを愛するようになります。このように自分を愛せる人は、隣人も愛せるようになります。今日、数多くの人々が、宮の美しの門の前に座っていた生まれつきの足なえの人のように、絶望とため息で毎日を生きています。ですから、私たちは「私にあるもの」によって、彼らの問題を解決することに力を尽くさなければなりません。

◎聖書研究
1.ペテロは、生まれつき足のなえた人に何と言いましたか?(使徒3:6;勉強する内容)
2.今日、イエス・キリストを信じる私たちにとって「私にあるもの」とは何ですか?(勉強する内容)

◎交わりと適用
1.「私にあるもの」を隣人に分け与えた境遇を、お互いに話してみましょう。
2.あなたはキリスト・イエスを通して、人生の根本的な問題が解決されましたか?