聖めの儀式 (2016.6.8)

1.きよい動物と汚がれた動物

神様は、イスラエルの民が食べられる動物を制限されました。肉類、魚類、鳥類、昆虫に至るまで具体的な基準を提示しながら、きよい動物と汚がれた動物を分けられました。
現代人の目で見ると、神様が食物まで区別されることはやりすぎだ、と考えるかもしれません。そのため、イスラエルの民が聖別された民となったことで、神様はその理由を説明されました。レビ記11章45節には『わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから』と記されています。イスラエルの民は、食物に対しても、すべてにおいても、みだらな暮らしをしてはいけない存在になりました。神様は、ご自身の民がきよさを守るために、彼らの暮らしで最も基本である食物から、神様の御心に従順することを命令されます。
イエス・キリストを信じて神様の子供になった人は、この世と区別された暮らしを送らなければなりません。この世は、私たちが望むなら何でもしてもよい、と誘惑します。しかし、それが最初は簡単ですばらしく見えますが、神様の基準を無視して自分の考えで生きる暮らしは、真の幸せではありません。神様の基準は私たちを閉じ込めるものではなく、私たちを罪から守る道しるべです。したがって、神様の御言葉の下で生きる時、私たちは真に幸いな人としての人生を生きることができるのです。(詩篇1:1~6)

2.出産後の儀式

女性が男の子を産むと、その子供は7日間汚れ、産婦は40日間汚れると見なされました。(レビ12:2~3) 女の子を産んだ場合は、その期間が2倍伸びます。つまり、生まれた子供は14日間汚れ、産婦は80日間汚れると見なされました。(レビ12:4~5) きよくなる期間になると、女は全焼のいけにえと、罪のためのいけにえを捧げなければなりません。全焼のいけにえには子羊を捧げ、罪のためのいけにえには家鳩を捧げましたが、子羊を捧げる余裕のない場合には、鳩に変えて捧げることができました。ルカ2章22~40節に登場するイエス様の聖めの儀式が、まさに全焼のいけにえと罪のためのいけにえなのです。このような儀式は、当時カナンの民の間で流行していた偶像崇拝と多神意識からイスラエルの民を分離させました。また、産婦と子供の出産の過程で失った力を、もう一度回復できる時間を与えました。イスラエルの民は、神様が決められた儀式を守ることによって衛生、健康、休息などいろいろな恩恵に預かったのです。
このような儀式を通して、私たちは、神様の御前に出て行く前に自分自身の心を吟味し、神様を恐れる心を準備しなければならないことを学ぶことができます。また、神様の命令に従順する暮らしの中で、神様がくださる恵みと祝福を深く悟るようになるのです。

3.ツァラアトに対するきよめの儀式

レビ記13~14章で登場するするツァラアトは、私たちが知っているハンセン病のみならず、すべての皮膚病のことを指します。皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができた人は、祭司に診てもらわなければなりません。(レビ13:2) 皮膚病だけでなく、火傷、傷、炎症のある人も、祭司に診てもらわなければなりません。
祭司に診た後、汚れたと言われた人は、衣服を裂き、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければなりません。(レビ13:45) これによって、人が近づかないようにして、病の伝染を防ぎました。人だけではなく、物にカビが生えた時も祭司の検査を受け、それが汚れていると見なされた時は、燃やさなければなりません。皮膚病にかかった人が治ると、もう一度、祭司に診察を受けました。病が完全に治ったことを祭司が確認すると、きよめの儀式によって自由を得ることができたのです。
神様は、皮膚病とカビの処理をする家庭を通して、神様の恵みと主権を同時に見せてくださいます。
汚れた人には、清さが必要です。その清さは、ただ神様の恵みによって得られます。

4.漏出に対するきよめの儀式

レビ記15章では、体のあらゆるところからの漏出について説明します。漏出は性病、あるいは性生活、女性の月経を言いますが、次のように二つの理由で、漏出が汚れたものとして見なされました。
一番目、殆どが不潔で放蕩な性生活による病気によるため、二番目、堕落した人間の体から漏出する分泌物であるため、不潔と見なされました。律法のきよめの儀式が、人間の隠しどころにまで触れると恥ずかしいかも知れませんが、律法の目的は、人を罪に定めることであり、贖うためではありません。レビ記15章31節には、『あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである』と記されています。このような規則は、神様の民を清くし、汚れの中で死ぬことがないようにするための神様の恵みであり、イエス様が十字架の上で成し遂げた、完全な救いの象徴的なシンボルです。

◎マナの要約
<きよい動物と汚がれた動物>
1.神様は、イスラエルの民の食物も制限されました。
2.神様の民は、暮らしの基本になる部分からすべてにおいて神様の基準によって暮らしました。
<出産後の儀式>
1.子供を出産した女性とその子は、一定の期間汚れていると見なされました。
2.これは子供と産婦を守り、命の主権者が神様であることを知らせる神様の方法です。
<ツァラアトに対するきよめの儀式>
1.神様は、皮膚病と伝染病を誘発するカビのような汚染物質を、きよめの儀式を通して防がれました。
2.私たちは、神様の主権と恵みを通して、私たちの汚れを取り除いてくださったことに感謝しなければならない。
<漏出に対するきよめの儀式>
1.性的病気、淫らな性生活など、私たちが恥ずかしいと思う部分まで、神様の主権の下に置かれています。
2.これらすべては、神様が私たちを罪に定めるためではなく、救うためであることを認識し、主の御前に隠さず、打ち明けなければなりません。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.神様の子供らしく、世の中と区別されて生きて行きましょう。
2.私たちを守る神様の恵みに感謝しながら、生きて行きましょう。
3.私たちを清くされる神様に感謝しながら、生きて行きましょう。
4.神様の前に隠さず、告白しながら生きて行きましょう。
<祈り>
1.この世の誘惑に陥らず、良き神様を信頼する信仰が与えられるように祈りましょう。
2.世の罪と問題、苦しみに打ち勝つ力が与えられるように祈りましょう。
3.私たちの暮らしに潜んでいる罪を神様に告白して、悔い改めの祈りをしましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合って、共に祈りましょう。

祭司の任職 (2016.5.25)

1.祭司の任職

アロンと彼の息子たちの祭司の任職は、モーセによって進められました。最初の日は、聖別すること、すなわち水で洗い、祭司の服を着てから、そそぎの油を頭に注いで聖別され(レビ8:2~13)、罪のためのいけにえと全焼のいけにえ、そして和解のいけにえと順番に進められました。(レビ8:14~32) 祭司の任職をする時、モーセは雄羊の血を、アロンと彼の息子たちの右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗りました。(レビ8:23~24) 耳たぶに塗った血は、聞くことの重要性を意味し、手の親指と足の親指に塗った血は、従順を象徴します。
今日、神様を礼拝する人々も、これと同じ心構えが必要です。礼拝者は、神様の御言葉を聞くことを慕い求めなければなりません。ローマ10章17節は、『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです』と記されています。御言葉を聞くことを慕い求めて近づく時、私たちの信仰は日々成熟するようになります。また、御言葉を聞いて終わるのではなく、聞いた御言葉に従順しなければなりません。ヤコブ1章22節は、『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません』と記されています。私たちが聞いた御言葉を生活の中で実践する時、その御言葉が、初めて生きる力の御言葉になり、私たちの生活を変える力になります。

2.祭司の職務の始まり

アロンと彼の息子たちは、任職後8日目に初めての公式的ないけにえを捧げました。最初にアロンは自分のために、罪のためのいけにえと全焼のいけにえを捧げ(レビ9:8~14)、 その後、民のために、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえの順番で捧げました。イスラエルの民は、大祭司たちのとりなしを通して、神様と霊的な関係を結んで生きることができました。しかし、祭司たちが、最初に自分たちのために、罪のためのいけにえを捧げたということは、神様の選択を受けた祭司も、弱く不完全な人間であることを示しています。
今日、私たちはアロンの位に等しい不完全な大祭司ではなく、メルキゼデクの位に等しい、永遠で完全な大祭司であるイエス・キリストを受け入れて生きています。(詩篇110:4、へブル5:1~10) 現在、私たちはイエス様を信じ、心に受け入れ、永遠の罪のためのいけにえを得て、神様と交わることができるようになりました。
いけにえを捧げ終えた後、モーセとアロンが民を祝福すると、神様が火を下し、祭壇の上の全焼のいけにえと油を焼き尽くしました。神様がアロンの最初のいけにえを受けられ、祭司職を認められたのです。神様がモーセに与えられた掟に祭司たちが完全に従順した時、神様はご自身の臨在を見せられ、民を祝福されました。神様に捧げる礼拝は、清く聖でなければなりません。私たちが神様の御前に清い心で礼拝を捧げ、神様の御言葉に従順して生きる時、神様は私たちと共に住まわれ、驚くべき祝福を与えられます。

3.ナダブとアビフの死

アロンの息子たちのうち、ナダブとアビフは、神様が示された全焼のいけにえの火(レビ6:12)ではなく、他の火を使って捧げました。すると、火が主の御前から出て、二人の息子を焼き尽くしてしまいました。彼らの死は不従順の代価であり、これからはこのような不従順をしてはならないという神様の警告でした。
全焼のいけにえの火も、生活の火も、すべて同じ火です。この程度の過ちで命を奪う神様の裁きは、理解できないかもしれません。しかし、神様が示された全焼のいけにえの火は、神様の聖さを意味します。聖さは、ヘブル語で「コーデシュ」と言いますが、この言葉は区別、違いという意味を持っています。祭司たちが香をたく時に、全焼のいけにえの火を使うことは、神様の聖さを認め、神様の御前に進み出る時に聖さを守る意味があります。特別に祭司として召された彼らは、神様の聖さを経験する特権を持っていました。(レビ10:3) この特権は彼らの祝福であり、誇りでしたが、大きな責任が伴うことでもありました。
ナダブとアビフが、全焼のいけにえの火で捧げなければならない、という神様の御言葉を無視し、異なった火で捧げたことは、神様の聖さを軽んじることでした。また、これは神様に対する恐れの心と、職務に対する忠実心が欠如した行動でした。
今日、私たちはイエス・キリストを信じさえすれば、誰でも神様の御前に進み出ることができます。これは驚くべき恵みであり、贈り物です。それゆえ、神様の聖さに対して、軽く考えやすいのです。私たちが神様を礼拝できる特権は、ただで与えられるものではありません。神様は、私たちを赦され、私たちと交わるために、ひとり子イエス・キリストの死、という大きな代価を支払われました。私たちは神様の恵みをいつも覚え、感謝しなければなりません。同時に神様の聖さを考え、神様の御前でひざまずいて礼拝する姿勢を持たなければなりません。

◎マナの要約
<祭司の任職>
1.神様を礼拝する人は、御言葉を聞くことを慕い求める心を抱かなければなりません。
2.私たちは、神様の御言葉を聞くことだけで終わらないで、従順する信仰を持たなければなりません。
<祭司の任職の始まり>
1.私たちは、罪を犯して問題が生じた時、必ずイエス様の十字架の恵みの前に行かなければなりません。
2.私たちが清く礼拝を捧げる時、神様は私たちの生活に祝福を与えて下さいます。
<ナダブとアビフの死>
1.神様は、愛と恵みの神様であられると同時に、聖の神様でもあられます。
2.礼拝を捧げる時は、神様を尊重し、愛する心で、謙遜に、神様の御前に進み出なければなりません。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.神様の御言葉を慕い求め、従順して生きましょう。
2.イエス様は、私たちの永遠の大祭司です。
3.イエス様の十字架の恵みを日々覚えて、感謝して生きましょう。
<祈り>
1.神様の御前で聖なる礼拝が捧げられるように、清い心を下さい、と祈りましょう。
2.聖霊様から与えられた御言葉を聞くことができる耳と、従順することができる心を下さい、と祈りましょう。
3.世の中で、神様の聖さを現すことができる霊的指導者にして下さい、と祈りましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合い、共に祈りましょう。

旧約の五大いけにえ (2016.5.11)

1.全焼のいけにえ

全焼のいけにえは、捧げ物を完全に焼くいけにえです。(レビ記1:9, 13, 17) 礼拝者が捧げ物を持って来たら、祭司はその頭に手を置いて祈った後、ほふってから皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けます。それから、祭司はいけにえの血を集めて、祭壇の周りに注ぎかけ、焼きます。
この時、捧げ物を完全に焼くことは、完全な献身を意味します。神様に喜ばれる礼拝は、全焼のいけにえのように、私たちの人生を完全に捧げる礼拝なのです。(ローマ12:1) 私たちは神様の御前に出る時、私たちの考えと基準をすべて明け渡し、神様に完全に従順する姿勢を持たなければなりません。
また、全焼のいけにえは、献身のいけにえであると同時に、贖いのいけにえにもなります。捧げ物をほふる前に、その捧げ物に手を置く儀式は、捧げ物がその人の罪を背負って代わりに死ぬことによって、イエス・キリストの贖いを象徴します。私たちは、自分が犯した罪を自ら赦すことはできません。ただ、イエス・キリストだけが、私たちをきよくできるのです。

2.穀物の捧げ物

穀物の捧げ物は、へブル語で「ミナ」と言います。この言葉は贈り物、奉献を意味します。神様への贈り物で、感謝の捧げ物が穀物の捧げ物です。したがって、穀物の捧げ物は、私たちの罪の赦しのためのものではないので、五大いけにえの中で唯一、血を流さない捧げ物です。捧げた穀物の一部分は祭壇の上で焼きますが、残りは祭司のものになるのです。穀物の捧げ物は、種を入れないものでなければなりません。種は、聖書では罪を象徴します。
Ⅰコリント5章8節には、『ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか』と記されています。私たちが礼拝を捧げる時は、自分自身の暮らしを吟味しながら、悔い改めた聖い心で捧げなければなりません。種と違って塩は、穀物の捧げ物に必ず入れなければなりません。塩は、聖さと変わらない永遠なる約束を象徴します。(民数記18:19) 私たちが聖い姿勢で主の御前に出る時、神様は永遠なる祝福の約束を神様の子供に与えられます。

3.和解のいけにえ

和解のいけにえは、神様との和睦と霊的な交わりを象徴するいけにえであり、感謝のいけにえ、誓願の捧げ物、進んで捧げる物があります。(レビ記7:15~16) 捧げ物の儀式が終わった後、聖徒はいけにえの肉を食べて交わりました。和解のいけにえは、祭司だけでなく、礼拝者が一緒に食べられる唯一のいけにえです。(レビ記7:15) 和解のいけにえの目的は、神様との関係の回復です。神様は、人間に和解の道を開かれました。したがって、和解のいけにえは、イエス・キリストの十字架の働きの模型です。ローマ3章25節には、『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです』と記されています。私たちがイエス・キリストの血に頼って神様の御前に出る時、壊れた神様との関係がすべて回復されます。

4.罪のためのいけにえ

罪のためのいけにえは、五つのいけにえの中で細かく分けられているいけにえであり、祭司、会衆、族長、および一般の人によって若干の違いがあります。罪のためのいけにえは、自分自身が気づかずに犯した罪を赦して頂くためのいけにえです。(レビ記4:13) 私たちが自ら犯した罪と背きの罪を思い出した時には、必ず主の御前で罪の問題を解決して頂かなければなりません。
罪のためのいけにえは、すべての人のために犠牲のいけにえとなり、すべての罪と背きの罪を一度で完全に赦されたイエス・キリストの贖いを象徴します。(ヨハネ1:29) キリストの贖いの恵みによって、聖徒たちは過去、現在、未来のすべての罪が赦され、神様の子供として天の祝福を手に入れました。

5.罪過のためのいけにえ

罪過のためのいけにえとは、人が不実なことを行い、誤って主の聖なるものに対して罪を犯した時と(レビ記5:15~19)、隣人に対して傷害や損失を負わせた時に(レビ記6:1~7)捧げるいけにえです。罪過のためのいけにえは、捧げ物が雄羊でなければならないし、罪を犯した隣人には、その被害に対する賠償をしなければならない特徴があります。隣人を騙したり、隣人の物を横取りしたりしたのであれば、その罪は人だけではなく、神様にも犯したことになります。(Ⅰコリント6:8~10) 罪を犯した人は、自分が奪った物をそのまま返すだけではなく、その価値の五分の一を加えて返さなければなりません。(レビ記5:16) 私たちは、罪過のためのいけにえの規範を通して、隣人との間に罪を犯した場合、神様と共に、人からも赦しを求めなければならないことを学ぶことができます。

◎マナの要約
<全焼のいけにえ>
1.捧げ物を完全に焼く全焼のいけにえは、神様に対する完全な献身を意味します。
2.神様の御前に出る時は、私たちの考えと基準をすべて明け渡し、神様に完全に従順する姿勢を持たなければなりません。
<穀物の捧げ物>
1.種を入れず、塩を入れた穀物の捧げ物を捧げる私たちの礼拝は、罪がなく、神様との関係が聖くなければなりません。
<和解のいけにえ>
1.和解のいけにえは、神様との交わりを象徴します。 神様がイエス様を和解のいけにえとして供えられ、私たちとの関係をすべて回復されました。
<罪のためのいけにえ>
1.罪のためのいけにえは、自分自身が気づかずに犯した罪を赦して頂くためのいけにえです。
2.イエス様の贖いの恵みによって、聖徒はすべての罪が赦され、神様の子供になりました。
<罪過のためのいけにえ>
1.罪過のためのいけにえは、神様の聖なるものに罪を犯した時、隣人に傷害や損失を負わせた時に捧げるいけにえです。
2.隣人との間の罪に対して、私たちは神様と隣人に赦しを求めなければなりません。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.神様に完全なる従順をしましょう。
2.神様に感謝をもって礼拝を捧げましょう。
3.神様を愛する心で礼拝を捧げましょう。
4.主の御前で謙遜な心で礼拝を捧げましょう。
5.愛し合う心で礼拝を捧げましょう。
<祈り>
1.イエス様を通して神様の御前に行く道を開いてくださった主に、感謝の祈りをしましょう。
2.暮らしを振り返り、罪を悔い改め、聖霊様だけを求める祈りをしましょう。
3.隣人の罪を赦し、愛することができる、心が与えられるように祈りましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合って、共に祈りましょう。

聖徒の日常生活の訓練 (2016.4.27)

1.管理者の信仰

管理者とは、主人の財産を管理し、主人の物を世話する人です。天地万物の創造主は神様であり、この世で生きる私たちは、この世の主人である神様が私たちに与えられたものを管理する管理者のような存在です。Ⅰペテロ4章10節には、『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい』と記されています。
したがって、私たちは誠実な管理者として、主人であるイエス・キリストに服従し、イエス様の有益のために働く義務を持っています。私たちは、救いの恵みに感謝する心で、各自持っている賜物を最大限に活用して、誠実に奉仕を行い、管理者としての人生を生きなければなりません。神様は、私たちに様々なタラントを与えてくださいました。(マタイ25:15)
ここで、タラントは賜物、才能を意味します。私たちは、神様が各自に与えられた才能によって用いられるのです。このようなタラントは、愛と謙遜によって使わなければならないのです。(ピリピ2:2~4) 良い管理者は、地位や貧富の差などにこだわりません。神様から与えられた務めが自分の一生の務めだと思い、愛と謙遜の心で働き、従順を通して、管理者のしもべとなり、すべての万物の主人である神様のために、誠実に務めを全うしなければなりません。各自が持っているタラントを最大限活用し、謙遜と愛によって一つとなって使命を全うする時、教会と共同体は凄まじいリバイバルと変化を経験するようになるのです。

2.事柄の計画と集中

時間は、神様が私たちに与えられた不思議な贈り物です。時間を賢く、創造的に使うと成功的な人生を生きますが、間違って使うと失敗と絶望を体験します。エペソ5章16節には、『機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです』と記されています。
時間を正しく活用するためには、私たちが具体的に計画を立て、その計画を達成するために最善を尽くさなければなりません。ある人は、神様にすべてを委ねると言って、何もしない人がいます。これは間違った信仰生活です。私たちは、すべてにおいて神様に頼る心を持つと同時に、具体的な計画と努力を平行して行わなければなりません。種蒔きのパウロと、水を注ぐアポロがいたからこそ、育てる神様の力によって、コリント教会には素晴らしい実が結ばれました。(Ⅰコリント3:6)
私たちが問題を解決して、事を成就するためには集中力が必要ですが、せっかち、心配、悩み、欲などが、私たちの集中力を妨害します。せっかちは集中を妨害して、人たちが多くの努力を持って成就したことを壊してしまうのです。また、思い煩いと心配は、人たちに悩みをもたらし、物事に対する集中力を妨げます。また、欲は、すべての事柄の本質を濁らせて罪をはらませ、争いを起こします。ですから、私たちは神様に祈り、このような要素を探して取り除き、すべての事柄に集中しなければなりません。
神様は全能なる方なので、神様が働かれると、すべての問題は解決されます。また、全能なる神様は、私たちのすべてに介入されることを望まれます。したがって、私たちは、すべてにおいて神様に頼らなければなりません。私たちが階段を上がるように、すべての事柄を段階別に、忍耐と落ち着きを持って臨み、毎日自分がしていることを神様に見てもらわなければなりません。

3.意思疎通の訓練

意思疎通とは、自分自身の意見と情報を、言語を通して正確に伝えることを意味します。共同体で意思疎通がうまくできなければ、誤解を招いたり争いを起こしたりして、お互いに悪い影響を及ぼすのです。このように、個人と共同体の中での意思疎通は、お互いに重大な影響を及ぼすので、慎重に行わなければなりません。
意思疎通がうまくできない理由は、多くの人が自分の立場に固守し、相手の立場を理解しようとしないからです。意思疎通は複雑な要素を含んでいるので、一回失敗したことであきらめず、忍耐と努力を惜しまなければなりません。このために、1.謙遜に聞くことが大事です。相手の話しを注意深く聞かない時、誤解を招きます。箴言18章13節には、『よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける』と記されています。
2.正直に打ち明けなければなりません。真実な言葉は、すばらしい意思疎通の方法の一つです。真実な言葉には、後悔などありません。3.愛と謙遜を持って話しましょう。意思疎通をうまくするためには、お互いに愛と謙遜が要求されます(ピリピ2:2) このように、意思疎通は、一方通行ではなく、相互通行でなければなりません。このために、対話はお互いに忍耐と努力を必要とします。望ましい意思疎通の方法を通して、教会と共同体は、成熟された交わりを築くことができるのです。

◎マナの要約
<管理者の信仰>
1.私たちは、この世の主人である神様が私たちに与えられたものを管理する、管理者のような存在です。
2.私たちは、神様が神様から与えられた務めが自分の一生の務めだと思い、愛と謙遜の心で働き、従順を通して、管理者のしもべとなり、すべての万物の主人である神様に、栄光を返さなければなりません。
<事柄の計画と集中>
1.時間を賢く、創造的に使うと成功的な人生を生きますが、間違って使うと失敗と絶望を体験します。
2.時間を正しく活用するためには、私たちが具体的に計画を立て、その計画を達成するために最善を尽くさなければなりません。
<意思疎通の訓練>
1.個人と共同体の中での意思疎通は、お互いに重大な影響を及ぼすので、慎重に行わなければなりません。
2.正しい意思疎通のために、私たちは謙遜に聞き、正直に打ち明け、愛と謙遜を持って話さなければなりません。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.この世の万物の主人は、神様です。
2.私たちは、神様のものを管理する管理者です。
3.時間を賢く、創造的に使いましょう。
4.具体的に計画を立て、その計画を達成するために最善を尽くしましょう。
5.望ましい意思疎通のために努力しましょう。
<祈り>
1.神様から私たちに任された務めを誠実に全うするために、神様から知恵と能力が与えられるよう、祈りましょう。
2.時間を浪費せず、賢く活用するように祈りましょう。
3.お互いに誤解と不信が積もらないように、意思疎通がうまくできるように祈りましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合い、共に祈りましょう。

聖徒の優先順位訓練(2016.4.6)

1.単純性

単純性とは、私たちの心が神様に対して、「聖さ」を持って生きることを意味します。これは、私たちがこの世の多くのことに焦点を合わすのではなく、神様だけに焦点を合わすことです。私たちがすべてにおいて神様に焦点を合わすと、人の目を気にしないようになり、私たちの言葉が真実で正直になります。反対に人の目を気にすると、うわべだけを強調する律法主義に落ちてしまいます。聖書は、単純性に対して二つのことを告げています。
一番目、聖書が示す単純性は、貪欲と黄金万能主義を拒みます。パウロはⅠコリント5章11節で、『私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです』と強調しています。この御言葉でパウロは、貪欲を不品行と盗みと偶像崇拝と言い、その中で生きている人は神様の国を受け継げない、と強調しています。また、Ⅰテモテ6章17~18節では、富んでいる人は宝に頼らないで、神様に頼って貧しい人に施しなさい、と告げています。
二番目、聖書では、単純性は禁欲主義を拒み、神様が創造されたものを楽しむように教えます。禁欲主義と単純性とは違います。禁欲主義は所有を否定しますが、単純性は所有を認め、正しい視覚で見るように促します。禁欲主義は貧しい時だけ満足を得ようとしますが、単純性は、貧しい時も豊かな時も満足することができるようになるのです。(ピリピ4:12参照)このように、単純性は私たちの暮らしのバランスを保ち、私たちが物質に支配されず、物質を正しく使うようにさせます。

2.自己点検

単純性を回復するためには、まず私たちが自分自身を点検しなければなりません。時々、私たちは自分の霊性に充分な投資をしていると考えますが、霊的な進歩が無くて絶望したり、落胆したりする時が多いのです。しかし、自分自身を振り返って分析して見れば、実際には霊性生活に充分な投資ができなかったこと、疎かであったことに気づきます。
私たちは、何よりも神様が与えられた最高の資産である時間を大切に考えなければなりません。エペソ5章15~16節には、『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです』と記されています。霊的な成長のために時間を投資しないことは、霊的に無秩序であるのです。昨日と今日、明日はお互いに分離せずに有機的につながっているので、霊的な成長は一時的な出来事、また行動を通して成されたことではなく、継続的に時間を費やして訓練する時に可能となります。
人間は、時間を統制することはできません。神様だけが可能なのです。人間ができることは、自分自身を管理することのみです。私たちは暮らしを正しく管理し、時間を最大に活用できる秘訣を学ばなければなりません。
暮らしの管理は、時間を正しく活用するために、どんな決定を下すべきなのかを学び、悟ることから始まります。したがって、私たちは、常に自分自身を点検することに努力を惜しまず、特に多くの時間を霊的な成長のために費やさなければなりません。その時、真の霊的成長を体験することができるのです。

3.優先順位の取り換え

神様が私たちに与えられた資源(時間、物質)を正しく使うためには、優先順位を正しく決めなければなりません。それは、私たちが神様の御心を世の中に成し遂げるために、私たちの資源を先に投資をすると、たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、健康になる神様の祝福に預かるのです。
一番目、優先順位を決めなければなりません。イエス様は多くのことをされましたが、その中でも神様の召命の完遂を一番にされました。召命は、優先順位を決める基準です。また、私たちは、すべてにおいて神様が認めることを最優先しなければなりません。神様は、私たちが優先順位を正しく決めた時に祝福されます。
二番目、優先順位を決めたら、大事なことに集中しなければなりません。ペテロが若い時は情熱のある人間でしたが、明らかな召命がありませんでした。しかし、聖霊様を体験してから、福音伝道が彼の召命となり、福音伝道に生涯をささげました。私たちも、神様から与えられた召命に集中しなければなりません。強い情熱と明らかな召命を持った時、私たちの行動が一貫性あるものとなるのです。
最後に、何よりも基本的な霊的な活動を最優先としなければなりません。祈りと御言葉、霊性訓練など、霊的な活動は神様との交わりにおいて必須的な要素です。霊的な活動が上手くできないのであれば、他の活動などは無意味なものになるのです。したがって、聖別された時間を設け、規則的、継続的な霊的活動を行わなければなりません。

◎マナの要約
<単純性>
1.単純性とは、私たちの心が神様に対する聖さを持って生きることです。
2.聖書が言っている単純性とは、貪欲と黄金万能主義、禁欲主義を拒み、神様が創造されたものを楽しむように教えられます。
<自己点検>
1.私たちは、神様がくださった最高の資産である時間を大切に考えなければなりません。
2.私たちは、常に自分自身を点検し、多くの時間を霊的成長のために費やすべきです。
<優先順位の取り換え>
1.私たちは優先順位を決め、大事なことに集中し、霊的な活動を大切にしなければなりません。
2.神様の御心を、世の中で完遂ことを一番とすると、たましいに幸いを得て、すべての点でも幸いを得、健康になる神様の祝福を手に入れることができるのです。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.神様に対して、私たちの心に「聖さ」を持って生きて行きましょう。
2.貪欲と黄金万能注意を拒否しなければなりません。
3.禁欲主義を拒み、神様が創造したものを感謝して楽しまなければなりません。
4.いつも自らを点検し、特に多くの時間を霊的な成長のために割かなければなりません。
5.優先順位を決め、守らなければなりません。
<祈り>
1.神様に対して、私たちの心が「聖さ」を持って生きて行くように祈りましょう。
2.貪欲と物質万能主義、禁欲主義を拒み、聖書通りに生きて行くように祈りましょう。
3.優先順位を決め、守るように祈りましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合い、共に祈りましょう。

人格成長訓練(2016.3.23)

1.聖霊様に頼る

人間は、罪によって神様との交わりが絶たれました。霊的な感覚はすべて消え、肉体的な五感で生きる存在になりました。聖霊様、神様は霊であるので、人間の目では見ることができません。私たちは、信仰を通してのみ、霊である聖霊様を見ることができ、知ることができるのです。私たちが罪から離れ、信仰の環境を整えて聖霊様に頼る時、私たちはリトルイエスとしての人格だけでなく、信仰の成熟を経験するようになります。
聖霊に頼る人生とは、一番目、聖霊様と交わる人生です。(Ⅰコリント13:13) 酸素は目に見えませんが、存在して私たちの命を支えるように、聖霊様も見えない霊として私たちと常に交わります。二番目、聖霊様の中で祈る暮らしです。(エペソ6:18) 私たちがイエス様の弟子として聖霊充満な人生を生きるためには、常に聖霊様の中で祈らなければなりません。私たちが聖霊様に頼って生きると、すばらしい人生が始まります。人の知恵で未来を予測し、正しい判断を下すことは不可能です。しかし、私たちが聖霊様に常に頼ると、試練と患難の中でも落胆したり、あきらめたりせず、神様が何を望むのかを知るようになるのです。

2.神様の御言葉の中に留まる

神様の御言葉には、力があります。(ヘブル4:12) 私たちが御言葉の中に留まる時、たましいが豊かになり、暮らしが自由になります。日々神様の御言葉の中に留まるとは、御言葉に従って行うことであり、神様の中に完全にとどまることです。Ⅰヨハネ2章5~6節には、『しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません』と記されています。そのためには、私たちは、神様の御言葉を毎日、規則的に読まなければなりません。
私たちが一日三食を取って健康を保つように、神様の御言葉を規則的に頂く時、健康な霊的状態を保つことができるのです。また、神様の御言葉を深く吟味する習慣を持たなければなりません。そうすれば神様と親しくなり、豊かな聖霊の実を結ぶことができるのです。
神様の御言葉の中に留まることによって、私たちが結ぶ聖霊の実は次のようなものです。
一、赦しの実です。聖書は私たちに赦しを教えています(コロサイ3:13)
二、愛の実です。イエス様は、御言葉の中に留まって柔順する人生が、神様の愛の中で留まることであると教えています。(ヨハネ15:10)
三、忍耐の実です。神様の御言葉には、慰めと希望が満ちています。(エレミヤ29:11) 私たちが絶望と苦難の中にいる時、御言葉を掴み、御言葉の中に留まれば、絶望は希望に、苦難は喜びに変わります。

3.祈りを通して神様の助けを求める

神様の知恵を頂き、神様に似て、イエス様の弟子になりたいのであれば、私たちは信仰の上に堅く立ち、神様の助けを求める祈りをしなければなりません。祈りを通して神様の助けを求め、御言葉に従順して進む時、私たちは神様の形に似ていく子供として、イエス様の成熟な人格を手に入れることができます。祈りは、神さまの子供である私たちが、神様と自発的に生ける霊的な交わりを分かち合うことなのです。
神様は私たちを愛され、私たちと交わることを望まれます。(申命記4:7) また、祈りは私たちを霊的に鍛えます。運動を通して肉体を鍛えるように、祈りは私たちの霊を鍛え、聖くするのに欠かさない訓練です。(Ⅰテモテ4:5) また、祈りは問題の解決の鍵です。
また、神様は、知恵を求める人に、溢れるほど与えられる方です。(ヤコブ1:5) ただ、信仰の祈りだけが、私たちの霊的、肉体的問題を解決することができるのです。したがって、私たちは勝利する人生を生きるために、常に祈りの生活を怠ってはなりません。
祈りの生活をするということは、霊的な力によって生きることを意味します。祈らなければ、霊的な力を失い、簡単に崩れてしまうのです。私たちの人生の中で霊的な勝利を納めるためには、毎日続けて祈ることがとても大事です。
Ⅰサムエル記12章23節には、『私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう』と記されています。神様の御前でひざをかがめて祈る時間が積み重なってこそ、霊的な人として変わっていくのです。霊的な生活の勝利は、祈りの習慣によって決まります。

◎マナの要約
<聖霊に頼る>
1.私たちは、信仰を通してのみ、聖霊様を知ることができます。
2.聖霊様に頼る人生は、聖霊様と常に交わり、聖霊様の中で祈ることです。
<御言葉の中に留まる>
1.神様の御言葉の中に留まるとは、御言葉に従って行うことによって、神様の中で完全に留まることを意味します。
2.神様の御言葉を毎日読んで、口ずさみ、暮らしに適応し、実践する時、私たちは豊かな実を結ぶことができます。
<祈りを通して神様の助けを求める>
1.祈りは、神様の子供である私たちが、神様と自発的に生きる霊的な交わりを分かち合うことです。
2.私たちの人生において霊的な暮らしの勝利は、毎日続けて祈る習慣から決まります。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.聖霊様と常に交わり、聖霊様の中で祈る暮らしをしましょう。
2.私たちは、神様の御言葉を日々読み、黙想し、暮らしに適応して実践しなければなりません。
3.祈りは、私たちが神様と霊的な交わりを分かち合うことです。
4.霊的な暮らしの勝利のためには、毎日粘り強く祈ることが重要です。
<祈り>
1.聖霊様と常に交わり、分かち合うように祈りましょう。
2.神様の御言葉を日々読み、黙想し、暮らしに適応し、実践するように祈りましょう。
3.霊的な暮らしの勝利のために、毎日粘り強く祈ることができるように祈りましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合い、共に祈りましょう。

信仰の環境(2016.3.9)

1.不信の環境

不信の環境では、すべての行動が否定的、不確実であり、行動と考えを整理することが難しくなります。敬虔な環境を調整することは、聖徒の義務の一つです。人間は社会的な存在であり、環境に大きな影響を受ける存在です。
墨に近づくと、墨のように黒くなると言うことわざがあります。私たちが不信の環境に近づくと、不信仰の影響を受け、信仰だけでなく人格も破壊されます。したがって、私たちは不信の信仰から断固離れなければなりません。Ⅰテサロニケ5章22節には、『悪はどんな悪でも避けなさい』と記されています。
私たちのすべての状況と心を知っておられる神様は、不信の環境を信仰の環境に変えられます。私たちが不信の環境から離れ、人格的な聖霊様に従って聖霊充満な暮らしを慕い求めるなら、人格の成長のみならず、信仰の成熟も体験することができます。

2.信仰の環境

神様は私たちを愛しておられるので、苦難の中でも、私たちを変わることなく導いてくださいます。私たちは、荒野のような環境の中で、信仰の成長を体験します。神様に大きく用いられる信仰の人は、すべて荒野のような暮らしの中で鍛えられます。信仰の先祖アブラハム、神様と格闘をしたヤコブ、夢の人ヨセフ、またイスラエル民族をエジプトから導き出した偉大なる指導者モーセも、荒野で鍛えられました。
神様は良い神様なので、私たちが今、苦難を受けても神様が回復してくださる信仰を持って祈ることができます。また、荒野の苦難には理由があります。私たちは荒野で忍耐する力を受け、強い訓練を受けることによって、神様に対する希望と信仰を所有するようになるのです。ローマ5章3~4節には、『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです』と記されています。また、聖霊充満な聖徒との交わりがある環境の中で、私たちはイエス・キリストに出会い、交わりができるのです。(Ⅰコリント1:9) 私たちがとりなしの御霊である聖霊様と共に信仰を持って生きるとき、私たちはキリストの満ちた身丈まで成長することができるのです。(エペソ4:13) 聖霊様は人格(知識・感情・意思)を持っている方なので、私たちが聖霊様に頼ると、神様に似る良い人格の持ち主になれるのです。ガラテヤ5章22~23節には、『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません』と記されています。私たちは不信の環境から断固離れ、聖霊様に頼る環境を作り、すばらしい御霊の実を結ばなければなりません。

3.信仰の環境で人格成長のための訓練方法

実を結ぶ聖徒の暮らしは、人格的にも成熟されなければなりません。そのためには、一番目、祈りの生活を通して、人格の成長を成し遂げなければなりません。祈りは、神様の導きを受ける方法であり、私たちを聖くします。私たちは、休まないで祈ることによって神様に似ることができ、神様の子供らしく成長することができるのです。(Ⅰテサロニケ5:17)
二番目、御言葉に従順して、人格の成長を成し遂げなければなりません。御言葉は神様です。(ヨハネ1:1) 神様の形に似て造られた私たちが、神様の御言葉に従順する時、私たちは小さなイエスとして成熟された人格を所有することができるのです。
三番目、聖霊充満による人格の成長を遂げなければなりません。(ガラテヤ5:16~18) 助け主、聖霊様は、私たちを教え、導き、慰め、私たちの弱さを助けてくださいます。私たちは毎瞬間、聖霊様を認め、歓迎し、受け入れ、頼って肉体の欲を取り除くことで、私たちの信仰と人格を成長させることができます。
四番目、教会に仕えることによって人格の成長を成し遂げなければなりません。イエス様の公生涯は、仕える人生でした。仕えることによって、私たちの人格が成長します。結局、人格は仕える行動によって表現されます。
人間は社会的な存在です。人間は、共同体という空間の中で相互関係を通して、お互いに漠大な影響を及ぼすのです。不信の環境では、人格と信仰の成熟を成し遂げることができません。私たちは良い信仰の環境を求めて、人格的な聖霊様に頼らなければなりません。
私たちは、荒野のような人生、すなわち、貧しさと病、苦しみと絶望が襲ってくる人生を生きても、聖霊の導きによって聖霊充満な環境に留まると、私たちは小さなイエスになり、人格の成長のみならず、驚くべき信仰の成熟を体験するようになるのです。

◎マナの要約
<不信の環境>
1.人間は社会的な存在であり、環境に大きな影響を受けて生きる存在です。
2.私たちは、私たちの人生の中で破壊的な影響を及ぼす不信の環境から、断固離れなければなりません。
<信仰の環境>
1.私たちは、荒野のような環境を通して、忍耐を学び、強い訓練を通して、神様に対する希望と信仰を所有することができます。
2.私たちは、聖霊充満な聖徒との交わりがある環境の中で、イエス様に出会い、イエス様と交わることができます。
<信仰の環境で人格成長のための訓練方法>
1.祈りの生活によって、人格は成長します。
2.御言葉の従順によって、人格は成長します。
3.聖霊充満によって、人格は成長します。
4.教会に仕えることによって、人格は成長します。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.私たちは、不信仰の環境から断固離れなければなりません
2.私たちは、信仰の環境を通して忍耐を学び、お互いに交わることができます。
3.私たちは、祈りの生活を通して、人格的な成長を成さなければなりません。
4.私たちは、御言葉に従順することによって、人格的な成長を成さなければなりません。
5.私たちは、聖霊充満を通して、人格的な成長を成さなければなりません。
6.私たちは、教会に仕えることによって、人格的な成長を成さなければなりません。
<祈り>
1.不信仰の環境から断固離れ、信仰の環境を作ることができるように祈りましょう。
2.祈りの生活、御言葉、聖霊充満、従順を通して、人格が成長できるように祈りましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合い、共に祈りましょう。

感謝(Ⅱ) (2016.2.24)

1.備えられた天国に感謝

アダムとエバが、神様の命令に逆らって善悪の知識の木の実をとって食べて後、人類にとって、死の恐怖が最も大きな悲劇となりました。多くの人は、死に対する恐怖を持つようになりました。しかし、イエス様を信じる私たちは、死の恐怖に打ち勝つことができます。(ヘブル2:14~15) 罪も傷のないイエス様が、神様から離れて永遠に捨てられるべき人間のために、十字架で血を流されました。私たちがこの事実を信仰によって受け入れると、永遠なる天国を所有するのです。
天国とは、生ける神様の栄光と統治が満ちている場所です。私たちは先ず、私たちに臨んでいる天国に感謝しなければなりません。(ルカ17:20~21) 天国が、この世で救われた聖徒たちの集まりである教会の中に、既に臨んでいることに感謝しなければなりません。また、私たちの祈りが答えられたことを通して、天国が体験できることに感謝しなければなりません。教会と聖徒を通した福音伝道は、私たちが生きるこの世で、天国が既に臨んだことの現れであり、再び来られるキリストの栄光の再臨を待ち望ませる記しなのです。従って、私たちは福音を伝えるたびに感謝しなければなりません。二番目、将来臨む天国について感謝しなければなりません。聖徒は、天国で完全なる栄華を成し、サタンと罪と死の権勢から永遠に解放され、永遠に続く安息と平安を手に入れることができるのです。罪も傷のない主の形に似て、主と真の交わりをしながら生きることができます。
また、この世で別れた親、兄弟、友達に再び会う喜びに預かるのです。私たちは全員、地獄で永遠の刑罰を受けるべき罪人でしたが、聖霊様の働きによってイエス・キリストを主と受け入れ、永遠の命を得る神様の子供になりました。したがって、この世だけではなく、天国でも永遠の命の栄光を手に入れる存在になりました。
天地万物を造られた父なる神様の家である天国は、涙も悩みも憂いも死もありません。私たちは、イエス様を信じて天国に行けることが、私たちにとって最も大きな祝福であることを覚え、日々喜びと勝利の人生を生きなければなりません。

2.すばらしい教会、すばらしい信仰に対する感謝

教会は、神様の祝福の通路です。私たちは、イエス様を信じて天国に行くまで、教会を通して神様の祝福を受けるようになります。教会を通して、私たちの信仰が育ち、主の御言葉を聞いて、主の御心を悟るようになります。良い教会は神様の御言葉に忠実な教会です。世の中で、聖書を超えるいかなる権威はあらず、聖書から離れた不思議な体験などもありえません。(黙示録22:18~19)
イエス・キリストのない福音は、福音ではありません。私たちに与えられたイエス・キリストを中心とする神様の恵みの御言葉は、純福音として要約することができるのです。純福音とは、聖霊の感動によって書かれた神様の御言葉を、ありのまま、すべてを信じ、受け入れる充満な福音を意味します。また、純福音は、イエス・キリストの贖いの恵みである十字架を原点とする信仰の基礎を持っています。イエス様の十字架の働きの結果、私たちに与えられのは、たましいに幸いを得ているように、全てに幸いを得て、健康になる恵みと、豊かないのちを得る三重の救いなのです。
また、三重の救いをより具体的に説明したのが五重の福音です。五重の福音は、新生の福音、聖霊充満の福音、癒しの福音、祝福の福音、再臨の福音です。また、このような三重の救いと五重の福音を聖徒たちが日常の生活で具体的に体験できる方法が、考え、信仰、夢、言葉という4次元の霊性なのです。
また、すばらしい教会は、聖霊充満な教会です。聖霊充満な教会の特徴は、一番目、祈り充満な教会です。聖霊充満の働きは、切なる祈りと関連があります。聖徒たちは、聖霊充満のために祈る方法を学び、祈ることを訓練し、祈りに献身しなければなりません。二番目、賜物充満でなければなりません。聖霊充満は、異言を初め、多様な賜物を通して、さらに力のある教会に変え、聖徒たちが情熱的に福音を告白できるようにします。三番目、全人格的な癒し充満です。癒しは主の御心です。救いによって、霊、肉、たましいと環境が全体的に癒され、回復されます。四番目、交わり充満です。聖霊充満な教会では、力動的な小グループの集まりがあります。小グループの集まりは、聖徒たちの信仰の成長と成熟の土台となり、福音伝道の基地となるのです。五番目、暮らしの実が充満になります。聖霊充満な教会は、愛によって闇の世界を照らし、社会と文化を変え、世界を変革させます。
このように、すばらしい教会、神様が喜ばれる教会とは、神様に栄光を帰す教会、キリストの福音を伝えることに最善を尽くす教会、御言葉と聖霊の恵み充満で、世界に主の光を照らす教会です。このような良い教会では、聖徒たちも信仰もすばらしく成長します。主に喜ばれる聖徒は、各自の信仰生活が一粒の麦となり、自分のみならず家庭、共同体、社会の中で麗しい実を結びます。私たちは、良い教会と良い信仰を与えられた神様に感謝しなければなりません。

◎マナの要約
<備えられた天国に感謝>
1.イエス様を信じる私たちは、死に対する恐れにも勝つことができます。
2.私たちは、この地で私たちが経験する天国に対して感謝しなければなりません。
3.私たちは、将来臨む天国に対して感謝しなければなりません
<すばらしい教会、すばらしい信仰に対する感謝>
1.教会は、神様の祝福の通路です。
2.良い教会は、神様の御言葉に忠実な教会です。
3.良い教会は、聖霊が充満している教会です。
4.良い教会で、聖徒の良い信仰が育ちます。
5.私たちは、良い教会と良い信仰を与えられた神様に感謝しなければなりません。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.私たちは、この地で天国を経験できます。
2.私たちは、将来天国に入ることができます。
3.教会は、神様の祝福の通路です。
4.良い教会で、良い信仰が育ちます。
<祈り>
1.この世でも天国を与えられた神様に感謝の祈りをしましょう。
2.私たちがこの世と別れて後、天国に入るようにしてくださったことに感謝の祈りをしましょう。
3.良い教会に出合い、良い信仰を与えられた神様に感謝の祈りをしましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合って、共に祈りましょう。

感謝(Ⅰ) (2016.2.10)

1.救いに対する感謝

イエス様を信じる人は、根本的に感謝できる理由があります。 それは、救いの恵みに対する感謝です。私たちは、キリストの贖いによって永遠に罪の刑罰から救われ、神様の子供になりました。世の中で、これに勝る奇蹟はありません。しかし、私たちは、現実の中にある試練や苦難のため、この恵みを忘れる時があります。 私たちは日々、救いの恵みに感謝する人生を生きなければなりません。Ⅱテサロニケ2章13節には、『しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです』と記されています。
私たちは、全人格的な救いの恵みに感謝しなければならないのです。 第一、神様は、私たちを罪と咎から救ってくださいました。人間は自ら犯した罪と呪い、病と死の苦痛を解決できる能力などありません。しかし、神様はイエス様の血潮によって人間のすべての罪を清められ、人間は神様と和解したのです。 第二、暗闇の国から救ってくださいました。(コロサイ1:13) 堕落した人間は、サタンの権勢の下で苦しむしかありませんでしたが、神様はイエス様を信じる私たちを、悪魔の手から救ってくださいました 。 第三、病から救ってくださいました。(Ⅰペテロ 2:24) イエス様は、働きの大部分を病の癒しに用いられ、十字架の死によって病の問題を根本的に解決されました。 第四、呪いから救ってくださいました。キリストの十字架の恵みを通して、私たちの呪いと貧乏の問題が解決され、私たちは律法の呪いから贖われ、アブラハムの祝福を手に入れることができました。 (使徒3:13~14) 第五、死から救われました。(ローマ6:22~23) 人が生まれて死ぬことは定められており、死後には裁きがあります。 しかし、イエス様を信じて贖われた私たちは、将来、罪の裁きを受けず、永遠な報いとして、永遠の命を受けるようになります。 第六、聖霊様は今も救いのために働かれます。キリストを通して行われた神様の贖いの働きを、私たちは聖霊様を通して体験し、手に入れることができます。(Ⅰコリント12:3)
救いに感謝する人が真の信仰の持ち主であり 、祝福の鍵を持った人です。救いを受けた聖徒は、救われたことに感謝しながら、暗闇の勢力を打ち破る祈りと御言葉を通して、常に勝利をしなければなりません。私たちは先ず、イエスキリストの名前で感謝しなければなりません。 真の心で感謝するだけではなく、奉仕と献身を通じて感謝を示さなければなりません。 また、すべてに感謝するために、感謝する習慣を持たなければなりません。

2.日用の糧に対する感謝

常に感謝する生活をすれば、神様はさらに感謝できる環境を与えてくださいます。 イエス様は、天の父なる神様に、日用の糧のために積極的に祈りなさい、と言われました。(マタイ6:11) ここで日用の糧という言葉は、命を維持するための必要な食べ物だけでなく、物質の世界で要する日常のすべてのものを意味します。 私たちが日用の糧のために祈る時、神様は私たちの生命と生活に必要なすべてのものを与えてくださいます。
感謝は、私たちに対する神様の御心です。 Ⅰテサロニケ5章18節には、『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです』と記されています。第一、日常的に最も平凡なものであっても感謝しなければなりません。真の感謝は、状況と条件に左右されない絶対的な感謝です。第二、神様が私たちのために、物質の世界を備えられたことに感謝しなければなりません。神様が物質に関心がない、ということは誤解です。 神様は人間を造る前に、人間が「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と心配しないで暮すことができるように、完璧で豊富な物質の世界を先に備えられました。第三、神様が愛するご自身の民に、驚くべき物質の祝福を約束されたことに感謝しなければなりません。(申命記28:1~6) 実際に神様は、従順するアブラハムに驚くべき物質的の祝福を与えられました。 また、私たちは十分の一献金と、捧げ物を通して、物質を偶像化しない証しを神様に見せなければなりません。第四、イエス様が言われた通り、日用の糧のために感謝しながら祈らなければなりません。 神様は、私たちのすべての必要を満たしてくださる方です。したがって、私たちは、神様によって乏しいことがないように、すべてのものを満たしてくださることを信じ、口で告白しなければなりません。
マタイ7章11節には、『してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう』と記されています。地上の悪しき父も、自分の子供の願いを聞くように、真に怒るのに遅く、いつくしみに富んでおられる父なる神様は、切に求めるご自身の子供には、必ず良いものを与えてくださるのです。神様は人格的であり、全知全能なる方であるので、私たち自身よりも私たちの状況をご存知であり、私たちは先に神様の国と義を求めれば良いのです。そうすれば、神様は私たちのすべてを満たしてくだいます。

◎マナの要約
<救いに対する感謝>
1.救いに感謝する人が真の信仰を持った人であり、祝福の鍵を持った人である。
2.私たちは、罪と闇の勢力から救ってくださった神様に感謝しなければなりません。
3.私たちは、病とのろいと死から救ってくださった神様に感謝しなければなりません。
4.聖霊様は、今も救いのために働かれています。
<日用の糧に対する感謝>
1.神様は、私たちの命と生活に必要なすべてを与えてくださいます。
2.私たちは、日用の平凡なものにも感謝をしなければなりません。
3.神様が備えられた物質の祝福に、感謝しなければなりません。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.私たちは、祈りの時間を通して、神様と深く交わります。
2.御言葉を十分に、また熱心に読みます。
3.朗読した御言葉を絶えず繰り返して読みます。
4.御言葉が生活に適用できるように祈ります。
5.御言葉を通して、互いに交わりましょう。
<祈り>
1.絶えず祈り、御言葉を読むことができますように祈りましょう。
2.御言葉を生活に適用できるように、力と知恵と能力が与えられますように祈りましょう。
3.兄弟姉妹の交わりを通して、恵みが豊かに与えられますように祈りましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合って、共に祈りましょう。

敬虔な時間を持つ方法 (2016.1.27)

1.祈り

祈りは、私たちの生活の中で、神様の臨在を体験する最も基本的な方法です。祈りは、霊的な対話です。人が対話を通して、互いに親密な関係を形成するように、私たちは祈りを通して、神様と深い関係を形成することができます。
私たちは、真心からの祈り、心の祈りを通して、神様と深い関係を形成することができます。私たちは、真心からの祈り、心の深いところから出る祈りによって、神様の御言葉を正しく悟ることができるように、祈り求めなければなりません。(ヨハネ14:26) 特に、聖霊様が私たちの心の目を開いてくださることによって(詩篇119:18)、神様の臨在と、神様の御言葉の中から、自分の生活に適用できる真理を学び取ることができるように、祈ることが重要です。詩篇119篇125節には『私はあなたのしもべです。私に悟りを授けてください。そうすれば私は、あなたのさとしを知るでしょう』と記されています。

2.聖書朗読

御言葉を読むとき、聖霊様の助けを求めることがまず重要です。そして、一番大切なことは、御言葉を十分に読むことです。御言葉をよく読むことが、黙想する上で大切なのです。御言葉を読むときは、自分の思いのまま読むのではなく、神様が自分に与えてくださる御言葉の種を見つけることが最初の課題です。そのため、祈りながら、心から聖書を読むことが大切なのです。
具体的な方法として、まず、聖霊様の導きに従いながら聖書を30分程度ゆっくり読みます。一回に多くの量を読まないで、少しずつ毎日読みます。量よりも、質が重要です。そして、心に響く御言葉に出会うまで読むことが大切です。聖書に対する知識と情報を得ることよりも、一人ひとりの心に、神様がどのように語っておられるのか、それを聞くように努力します。
基本的に、心に響いた聖書本文を3回通読することが望ましい方法です。一回目は、本文全体の内容を把握します。二回目は、もっと詳しく読みながら、聖書箇所で扱われている事柄を発見します。三回目は、二回目までの成果をもとに、神様が私たちに与えてくださる御言葉が、何であるかを考えながら読みます。

3.黙想

黙想には「反すう」という意味があります。黙想は、読むべき御言葉を反すうしながら、深く吟味する段階です。詩篇119篇15節は、『私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます』と記されています。私たちが一日中、神様の御言葉を繰り返し黙想するとき、霊的な栄養分が御言葉を通して私たちに流れ入ります。
ある御言葉の箇所が近づいて、心に触れたときは、そこで留まり、その御言葉を集中的に黙想します。ある御言葉が心に響くことは、現実の生活が御言葉に反応したためです。そのような御言葉がないときは、その日の核心的なメッセージを黙想することで十分です。
黙想するときは、近くに筆記具と黙想のノートを備えて、御言葉の箇所をメモしたり、ノートに書いたりして、繰り返し読むことが大切です。黙想する中で慰め、警告、望み、叱責、真理に対する悟りなどが心に浮かび上がったときは、すぐ書くようにしましょう。これらのことを通して、聖書本文を形式的に読み進めてしまうことを避けることができます。

4.黙想後の祈り

御言葉を黙想しながら悟った点、決心した点などを神様に話します。未だ分からない神様の御心、実行することが難しい適用、繰り返し失敗する適用などを、神様にもう一度話します。また、その日に吟味した御言葉を、生活に適用することができるように、力と能力、および知恵を求めて、一日全体を神様に委ねる祈りを捧げます。

5.分かち合い

黙想を通して与えられた御言葉、実生活に適用した御言葉などを他の兄弟姉妹と共に分かち合うことによって、誤った適用を避けることができます。このような分かち合いの時間を通して、私たちは聖霊様の恵みを、生活の中でより深く体験することができます。
敬虔の時間は、神様との霊的な交わりであるため、クリスチャンの生活において、なくてはならない重要な要素です。毎日の祈りと聖書朗読、黙想と分かち合いを通して神様に進み出て行くとき、神様の御心を悟り、生活の中で実践して生きる真の信仰の人となるでしょう。

◎マナの要約
<祈り>
1.私たちは、神様との対話である祈りを通して、神様との深い関係を築くことができます。
<聖書朗読>
1.御言葉を読むとき、聖霊様の助けを求め、御言葉を十分に読むことが大切です。
<黙想>
1.私たちは、読み終えた本文の御言葉を繰り返し読みながら、吟味しなければなりません。
<黙想後の祈り>
1.理解し、悟った御言葉を生活に適用できる力と能力、知恵が与えられるように祈らなければなりません。
<分かち合い>
1.与えられた御言葉を他の兄弟姉妹たちと共に分ち合いながら、間違った適用を避けることができます。

◎私の生活のマナ
<隣の人とあいさつ>
1.私たちは、祈りの時間を通して、神様と深く交わります。
2.御言葉を十分に、また熱心に読みます。
3.朗読した御言葉を絶えず繰り返して読みます。
4.御言葉が生活に適用できるように祈ります。
5.御言葉を通して、互いに交わりましょう。
<祈り>
1.敬虔の時間を妨げるものをすべて取り除き、毎日敬虔の時間を持つことができるように祈りましょう。
2.神様の中で、私たちのアイデンティティをよく悟ることができるように祈りましょう。
3.罪を断固と退け、祈りと御言葉に全うすることができるように祈りましょう。
<とりなしの祈り>
隣の人と祈りの題目を分かち合って、共に祈りましょう。